昭和40年10月02日 朝の御理解
信心の稽古信心の稽古と、昨日から昨夜のご理解にいたって、この信心の稽古という事を盛んに、私申しておりますけれども、ここで信心の稽古をさせて頂くという。どこを目指しどこを焦点に、そらそれぞれに人格的に、ま性格的に皆さん銘々に違った良いものを持っておいでられます。けれどもここではどうでもですね、結局は私流儀にならなければ、本当のことは分からないということです。
信心の稽古というものは。こういう場合に先生はどういうふうな有り方、生き方をされるかという、ここんとこに何時も焦点を置かなければならない。ここではですね、私あの、その信心の稽古ということについてから、今朝もそんなことを思うて、あの御祈念をさせて頂いとりましたらですね。あの月桂冠というお神酒が沢山お供えになっておりますね。ここはもう月桂冠が多いんです。
それであの月桂冠というあの、お神酒のあの化粧箱の中に、あの箱にですねあの図柄の中に、万年亀と書いてある。あの月桂冠と書かずにですね、万年亀と書いてあるんですよ。もうどんなにここでね、例えば素直な信心をするとか、迫力のある信心をするとか、いわゆる頭の良い、その切れたいうなら、信心をすると言うてもです。私の生き方私の有り方を、まず体得するより他にないということ。
月桂冠ということは、まあいうならほんとの信心を極めるというような意味合いに、私は感じるんですね。いわばその月の柱に通うとかですね。また冠ということは成就という意味でしょうね。王冠の冠です。それがあのままの意匠の中にですね、いやなかに万年亀と万年亀ということは、私は信心ということだとこう思うのですけどね。私の流儀はこういう流儀だと言うて私が如何に、皆さんにほんなら様々に説明を致しましてもですね。それを説明できるものではないと。
これはやはり私にあの接近されて、私の流儀はもう言わず語らず、以心伝心とでも申しますかそれがこう通うていくもの。いつの間にか体得が出来るもの。だから先ずほんとに椛目の信心を体得する。椛目の信心を体得するということは、そのまんま金光大神の信心を体得するというような、例えばその全部がその中にあるとは思われません。それは私自身だって金光様のご信心の、ほん一部を頂いてその一部を持って、金光大神に通い天地に通うておるというような感じですけれどもです。ね。
椛目でご信心を頂かれるならば、先ず何と言うても私の信心の流儀というか、生き方というものを、皆さんが体得して下さるということ。ここでは様々なタイプがございます。秋永先生。久保山先生。ま久富先生と。まどの先生方の場合でもです。それぞれの個性、性格というものは違います。けどもその流儀とするところは、やはり私流儀のものでなからなければおかげは受けられないと。
またここんところは説明では分からないと。これは、何の稽古をさせて頂きましても、その何々流、何々流というのがございます。それでそれを稽古していきよるうち、その何々流が身に付いてくるのでございますから、ま昨日から申しておりますように、稽古して行きよるうちに、これだといったような物が、見に付いてくるのではないかとこう思うのですけれどね。
そういう意味で例えばあの、他所からまあここで一番言うなら、吉井の熊谷さんなんかは、以前永年他で信心を、同じ金光様のご信心を頂いとられるのだけれども、他所で稽古をしておられた。だからまあ十五年間の間に、あれだけ熱心な信心をされてですたい。私の信心を最近ようやく、体得されたといったような、感じがあるということです。もうですから、今までの流儀を捨てることに、非常に骨折っておられるということです。骨折られたということです。
かというと今度椛目でですね。私流儀というものを体得され、いわばあのなんと申しますかね。あの信心を椛目で信心の稽古をなさったと言う方は、それはもう熊谷さんあたりがうらやましいだろうと思うくらいにです。もうさぁっと椛目流になって行かれるという事実があることです。本気で稽古される。もうどんなに頭が良かっても、どんなに良い個性を持っておられても、やはり一応はだから私の信心のケースに入らなければならん。本当のことではないということですね。
そこにはです、私が頂いておるものを同じ様なものを、皆さんの家にも頂けるようになると。例えばほんならお知らせ一つでも、私流に頂かれることが出来るようになるということ。ですからこれは言い換えますと、私が頂いておるおかげも御徳も一様なものが頂けるようになるということになるんじゃないでしょうかね。段々それを稽古しておい出られたら。どうぞその月桂冠とのあの化粧箱の意匠の中に、万年亀とこう頂いておる、私はそういう風に感じたんですけど。
ほんなら私の流儀を皆さんに、これだこういう風にならなきゃならんと言うて、教えてお上げするわけにもいかん。けどもそれからだけでもです。如何にその流儀というものを自分のものにするということが、ある意味で難しいかということが分かるですね。ただ上の空のようにしとっては、流儀はいただけません。ただ幾ら本を読んだりです。いくら他所の話を聞いてもです。
他所の話を聞いたんでは他の本を読んだからと言うて、おかげを頂けるものじゃ、絶対無いですこれは。これは椛目に限らずどこでもそうです。例えば玉水さんだったら、玉水さんのご流儀というものを、身に付けなければおかげは、受けられないという事実があることです。甘木流だったら甘木流を身に付けられなければ、甘木の先生がお受けになっておったような、おかげが流れていないという、事実があるということ。
ここではなんと言うても、大坪流を先ず一つ身に付けなければいけない。ね。どうぞ一つお互いの信心がそういうことの、一つの調子と言うかね。が出ておるかどうか。如何に信心が高尚になってまいりよりましても、私の流儀というものをはずしたら、おかげは受けられません。それではやはりここではお徳は受けられません。
このことの説明はまた別な機会に、何故そうなのかという事をまた説明が長くなると思うですね。ここでは、どうでも、私の流儀に先ず、ならせて頂くということにおかげ頂かなきゃならんです。本当にそうですもんね。ここで、つらっと思うて御覧なさい。もう、ほんとにそうです。私流儀にならなければ、おかげは受けられんですよ。もう、はっきりそれはしておるようですね。
どうぞもう私に、ここに縁を頂かれたのが、まあ、いうなら因果です。そういう一つの、因果といったら可笑しいですけど、ま、そういう一つのご縁というものがですね。ここで、いよいよ生きてくるために、ね。私の信心というものを、先ず体得する。私の信心の流儀を先ず体得すると、言うことになられることが、本当の信心の稽古の基礎ではないだろうかというふうに感じますですね。
どうぞ。